論争のテーマは天動説と地動説であった.天動説とは地球を中心とする天体の運動の記述のことである.当時の天動説学者も科学的な態度を身につけていたから(当時の教会の偏見はさて置く),天体の運動が何か根源的な原理に従っていると考え,その原理を円運動とした.しかし,惑星が地球の周りを円運動すると仮定すると,ときにそれに逆行する動きが観察される.しかし,それは天体が円運動する点を中心とする円運動(周転円)をするとほぼ解決する.それでも観測と合わない部分は周転円軌道上の点を中心とするさらなる周転円を考え,必要ならさらに小さい周転円を考える.これによって天体の運動が完璧な精度で予測され,農業や航海に大きな恩恵をもたらした.
運動を円運動の重ね合わせで説明することは,今日の用語ではフランスの数学者フーリエにちなんでフーリエ解析と呼ばれているものに相当する.これはすべての周期運動が三角関数sin, cos合成で完全に記述されるという驚くべきものであり,発見当時は評価されなかったが,今日では数学史上の最大の発見の一つとされ,熱伝搬や音波や電波の記述の基礎となり,ラジオやテレビやステレオはすべてフーリエの理論に基づいて設計されている.
一方,地動説は天体が太陽の周りの楕円運動をするというものであり,ケプラーによる観測結果をよく説明する.これが後にニュートンの運動方程式の発見につながり,今日のニュートン力学となった.天体の楕円運動はニュートンの方程式から導かれる角運動量保存法則によって説明できる.これは天体の運動のみならず,すべての運動に適用されるので,今日では自動車,航空機,ロケットなどのあらゆる運動の制御の基礎となっている.
このことを考えると,天体の運動に限定すれば地動説も天動説も同等の説明能力があるとしても,地動説のほうがあらゆる運動の法則に発展したという意味でより根源的である.板倉先生はこのことをもって,天動説が「誤り」であり,地動説が「正しい」とされ,そのような正しく,より根源的な原理を追求するのが科学的の目的であると主張されている.しかし,そうであろうか.
ニュートンの力学はほぼすべての現象を説明するが,光速が問題になるような速い運動や分子や原子レベルの微細な運動には当てはまらないことが発見され,相対性理論や量子力学が確立した.結論としてニュートンの力学は自然界の根源的な原理としては誤りであり,相対性理論や量子力学の特殊な場合(光速が問題にならない,対象が原子,分子より大きい対象の場合)の近似とされる.しかし,高校の物理では全員がニュートンの力学を勉強し,大学入試にも出題される.高校生は「誤った」理論を勉強しているということになる.これを高校生にどう説明するのか.
これは「科学」というものの見方の問題である.現在の多くの物理学者は物理法則とはそれが適用される領域があり,その領域で正しく説明できる理論がその領域における「正しい」理論であり,真理であると考えている.その意味で,宇宙や原子分子を問題にしない日常生活や産業の現場では,ニュートンの力学は真理であり,だから高校で教え,大学入試に出題される.
物理学の一分野に熱力学(統計力学とも呼ばれる)がある.これは空気や水のような気体や液体,金属などの物質の性質を調べる学問である.物質を構成する分子は非常に数が多いので,分子の動きを支配する量子力学の法則を無視し,その運動を不規則(ランダム)とみなして,平均的な挙動を記述するものである.その意味で真理の近似とも言えるが,温度(=分子の平均的なエネルギー)や圧力(=分子の衝突力の平均)が関係する測定装置はすべて熱力学の原理で設計され,測定装置で測定する物質の性質は厳密に熱力学の法則に従う.その意味で物質現象の真理であり,自動車や航空機のエンジンなどの動力装置や半導体などの物質の設計,およびそれら測定装置の基礎となっている.
しかし,熱力学は分子が存在しない宇宙空間や分子がわずかしかない希薄気体や分子がほとんど運動しない超低温状態では成立しない.そのような領域では熱力学は「誤り」であり,直接に量子力学を適用しなければならない.さらに,同じ熱力学でも非常に高温の状態では特有な現象が現れ,反対に低温状態でも特有な現象が生じる.それらを精密に記述するのが高温物理学,低温物理学であり,これらもそれぞれの領域では厳密な真理である.一方,その領域外では「誤り」である.
このように,物理学には領域があり,その領域で正しく成り立つ法則を追求する.それはそれらの領域が人間生活にとって重要であるからである.このような「人間にとって役立つ便利な理論を真とする」という考えを板倉先生は否定され,「真理の客観性をゆがめて考えるもの」といわれている.しかし,それなら今日の物理学者の活動のほとんどが否定されてしまう.
真理の客観性として私がよく問題にするのは,小学校,中学校で教えられる「色の三原色」である.これはあらゆる色の光が赤,緑,青の三色の光の合成で表されるというものである(絵の具の三原色もある).小学生や中学生は,これは光の物理法則であると思い込む者が多い(私もそうであった).しかし,これは物理法則ではなく心理学であり,人間の眼に色を知覚する視細胞が3種類しかないという事実に基づくものである.物理学的には光は波動であり(フーリエの理論で記述される),異なる波動は異なる光である.しかし,人間の眼には3種類の視細胞しかないので,異なる波動が同じ色に見える.どういう波動とどういう波動が同じ色に見えるかは多くに被験者による知覚実験によって調査され,色の理論はそれに基づいている.そして,その理論によってカラーテレビやプリンターが設計されている.これは「真理の客観性」がないから科学でないといえるだろうか.色の理論に基づいて美しいカラーテレビを設計する努力は「科学的」ではないというのであろうか.
以上に述べたように,「科学」には二つの側面がある.一つは状況に無関係に成立すべき根源的な原理を追求するものである(現在では相対性理論も量子力学も不完全とされている).もう一つは特定の領域で厳密に成立する法則を追求するものである.特定の領域を問題にするのは,その領域が人間の生活に密接に関係するからであり,その成果が産業に応用されるという意味で「人間にとって役立つ便利な理論」である.今日の「科学者」と呼ばれる人の圧倒的多数は後者に属している.板倉先生の見解は「科学史」という文脈であるとはいえ,今日の科学の姿のごく一部しかとらえていないのではないかと思える.
私自身も人間生活に役立つ科学を志向して工学部に進学して,教育研究に従事し,科学技術の発展に多いに貢献したと考えている.もし,私が高校時代に板倉先生の考えに深く影響されていれば,現在はヒッグス粒子や超ひも理論に没頭していたかもしれない.
たのしい授業, 8月号(2014年8月3日), 仮説社, pp. 72~76