書評:本谷秀堅 (名古屋工業大学)

本書「幾何学と代数系」は、金谷健一先生が書かれた、幾何学的代数を紹介する初学 者向けの教科書である。初学者に配慮して「背景となるさまざまな代数系を個別に説 明し、最後にそれらがどのように幾何学的代数として組み合わされているかを示すと いう順」で書かれており、当該分野の独習にとても適した本である。ベクトルの内積 やノルム、ベクトル積の説明に始まり、四元数、グラスマン、ハミルトン、クリフォー ドの各代数系の説明を経て共形幾何学へと説明が進む。内積や形式和など必要な演算 は順を追って丁寧に導入されていき、また、大切な概念については繰り返し、しかも 毎回少しずつ違った流儀で説明がなされるため、初学者でも道に迷うこと無く、最後 まで独力で読み進められるように書かれている。初学者だけではなく数学を専門とし ない多くの研究者にとっても、そもそも「代数系」とはどのようなもので、「幾何学」 とどのように関わるのか、その感覚を身につけられる点で、とても重宝な本である。

本書で紹介される術語の多くは、少しでもコンピュータビジョンを勉強したことのあ る者にとっては、馴染みのあるものかもしれない。例えば、ベクトル、内積、ベクト ル積、四元数、射影幾何学などは、いずれもどこかで一度は出会ったことのある用語 であり、また、個々の術語の内容を知ることも難しくはない。しかし、幾何学と代数 系について体系立てて勉強したことの無い人は、きっと本書の随所で、馴染みの言葉 の理解を刷新したり、基礎部分の知識の欠損を補完したりすることができるであろう と思う。例えば私は、本書によって四元数の理解を新たにすることができたし、四元 数を手掛かりにハミルトン代数系や、それを含むクリフォード代数系について学ぶこ とができた。これは大きな収穫であった。

本書は3次元幾何学の基礎を解説している。コンピュータビジョンの分野については、 特にカメラ画像系は3次元の世界を扱うものであり、本書を読むことにより当該分野 の幾何学的背景をしっかりと理解することができる。これだけでも教科書として充分 有用である。しかし本書の真価は、高次元の幾何学やテンソル解析と代数系の関係を 理解するための、幾何学的感覚を身につけられるところにもあるかもしれない。

フィールズ賞を受賞した小平邦彦の著作「幾何への誘い」では、平面幾何の最も重要 な文献としてユークリッドの「原論」とヒルベルトの「幾何学の基礎」を挙げ、特に 後者が形式主義を導入したことを指摘したのち、アダマールの次の台詞を紹介してい る:

ヒルベルトは幾何学から直感の介入を一切排除することに成功した。しかし、ヒル ベルトが「幾何学の基礎」を書くに当たってつねに直感(幾何学的感覚)に導かれて いたことは疑いない」(数学における発明の心理)

最近では、コンピュータビジョンの論文を読む際に、図示したり思い浮かべたりする ことが困難な、高次元多様体の構造を解析したり理解したりする能力が要求されるこ とが少なくない。例えば情報幾何学によって確率モデルに基づく推定法を統一的に理 解したり、代数系を修正することにより様々な推論法の開発を試みたりする際にも、 図示できない対象=確率分布が構成する多次元多様体の構造を表現する必要があり、 そのために前記「形式主義」の力が使われる。そして、そのような「形式」の体系の 理解には、実は、図示して思い浮かべることのできる3次元幾何の感覚が重要な役割 を果たすのではないかと思う。本書の第3章では、metricや座標変換とその周辺につ いて、丁寧で分かりやすい解説がなされている。これらはいずれも幾何学的代数にお ける重要で基礎的な概念であり、より発展的な内容を勉強するためには身につけてお きたい事柄である。本書の著者は、第3章は読み飛ばしても他の章を読む障害にはな らないことだけを指摘しているが、一度読み飛ばした後で戻ってでも読む価値のある 章である。

章末の演習問題には解答もついており、本書は読者の独習に適した、金谷先生のサー ビス精神にあふれた一冊である。そういえば本書が発行される2014年の翌年、2015年 より,高校で行列を一切勉強しない学生が大学へと進学してくる。本書は、高校で行 列を習うこと無く、大学でいきなり線形代数や幾何学的代数を学ばねばならない学生 達にとっても、大いに役立つだろうと思う。