初めから対称行列と直交行列しか相手にしない。固有ベクトルは直交していて
対角化は常に可能だから、ジョルダン標準形の( 不毛な?)議論は丸ごと無視
できて、応用上はそれより重要な、特異値や一般逆行列の話題に舵を切ってい
ける……
今まで(線形代数としては)読んだことのない、愉快痛快な展開で、数学がご
専門の先生方には、失礼ながらまず出来ない割り切り方かと存じます(私の友
人は「先生の著書には毎日お世話になっていて、その展開は完全に想定内です」
とおっしゃっていました)。
たとえ対称行列から、行列のクラスを少し広げたとしても、固有値に重根がな
ければ対角化は可能なので、ジョルダンブロックはそも そも考える必要がな
い……理屈の上からもほぼ問題はないということでしょうか。
すでに線形代数マスターを自負される方は、あとがきにアクセスして二度びっ
くり。ここのエピソードで、目の前がさらに明るさを増した気がいたします。
宮澤さま.
私は最近,こう考えています.歴史的には線形代数の分野は二つの異質の世界
からなっていました.一つ(仮に世界Sと呼びましょう)は齋藤(東大学出版会
1966)に書かれている世界で,起源は連立1次方程式の解法にあり,ガウスらに
よって行列式,ランク,線形独立性,逆行列,などの概念が生まれ,抽象化さ
れてきました(その最たるものはジョルダンの標準形).
もう一つ(仮に世界Pと呼びましょう)は物理学や工学の世界で,その中心はエ
ネルギーという概念です.これは対称行列を係数とする2次形式の解析となり,
主値,主軸という概念が生まれました.この世界で考える行列はすべて対称行
列で,伝統的に「テンソル」と呼ばれてきました.物理世界が対象なので,行
列(すなわちテンソル)の固有値(すなわち主値)はすべて実数で,固有ベク
トル(すなわち主軸)は互いに直交しています(その量子力学向けの拡張はエ
ルミート,ユニタリの世界).
現代の線形代数はこの二つの世界が並存していて,しばしば混乱が生じて,大
学の教育に一貫性がなく,妙な誤りが起きたりすると甘利先生も嘆かれたこと
があります.
しかし,最近,この二つの世界が統合されたようで,その要は特異値分解です.
世界Pでは固有値や固有ベクトルを考えるのはすべて対称行列ですが,世界Sで
考える一般の(長方)行列Aも,AA^{T}やA^{T}Aは対称行列です.したがって,
実数(しかも非負)の固有値や固有ベクトルが存在します.その固有値や固有
ベクトル(すなわち,特異値,特異ベクトル)を使って(長方)行列Aを解析す
れば(すなわち特異値分解を用いれば),「実数世界で起こる」ほとんどすべ
ての結果が得られます.したがって,深淵なジョルダンの標準形など考える必
要がなくなります.
このように,二つの世界を統合するのが特異値分解なのに,線形代数を支える
齋藤(東大学出版会 1966)に特異値分解が書かれていないことが,その重大な
欠陥だと思えます.これが,いまだに数学者と物理・工学者の溝が埋まらない
原因の一つではないでしょうか.計算機の出現で情報処理の世界がどんどん進
化しているのに,数学の世界は孤立しているように見えます.
本書がもっと数学者に注目されることを期待しています.